×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

丸岡城

柴田勝家の甥、柴田勝豊が築いた北の庄城の支城


1576年、柴田勝豊は丸岡城を築城、対北陸方面の最前線の城であった。
1582年、勝豊は清州会議により長浜城へ移封、彼は後に秀吉側に寝返り勝家を敗北へと導いた。
勝家の死後は丹羽長秀の家臣、青山宗勝が入城するも関ヶ原の戦いで西軍につき改易される。
1612年、本多成重が入城、近世城郭へと城を改修する。
福井藩二代目藩主、松平忠直の改易に伴い丸岡藩は独立。
その後本多家も改易され、有馬清純が1695年に入城し、以後有馬氏の居城となる。


かつて本丸を五角形に囲んでいた堀の名残り。
人柱とされたお静が片眼の蛇となって現れた『蛇の井』。お静は片眼の娘で、二人の息子を侍に取り立てることを条件に人柱となったが約束は守られなかった。
お静の慰霊碑。
「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」。
徳川家康の家臣、本多重次が長篠の戦いの陣中から妻に宛てて送った日本一短い手紙。「お仙」とは後の丸岡城主本多成重(幼名.仙千代)。
現存最古の可能性がある天守。柴田勝豊によって造営されたとも言われるが、一階と二階のと通し柱がなく、高覧も形骸化していることから、本多成重による造営、もしくは改築された可能性が高い。1948年の福井地震で倒壊したが、古材を用いて復元された。
古式な野面積みの天守台石垣。
二層の小ぶりな天守だが、迫力はある。
本来丸岡城天守は掘立柱の天守であり、石垣内部に雨水が入らないように腰庇が取り付けられている。いかにも古式だ。
天守一階。
階段はロープが取り付けられているほど急・・・
天守二階。
武者隠しの間。
寒さ対策のため、丸岡城の瓦は石瓦が葺かれている。創建当初はこけら葺きだった可能性が高いらしい。
天守最上階。
高覧。
天守最上階からの眺め。


備中松山城へ


戻る