×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

備中松山城

天守が唯一現存する山城


1574年、松山城城主三村元親は毛利氏に反旗を翻すも、逆に毛利方の小早川隆景に攻められ松山城は落城。
元親は切腹し、城は毛利氏の城となった。
関ヶ原の戦いの後には、小堀正次、正一親子が入城。
1617年には池田長幸が入城するも二代藩主長常が嗣子なく没したため池田家は断絶。
1642年、水谷勝隆が入城するも三代藩主水谷勝美が没した際、水谷家は無嗣断絶で改易。
その後、安藤氏、石川氏が入城し、最後には板倉氏の居城として明治に至った。


戦時には松山城の支城ともなる頼久寺。小堀氏の居館としても用いられた。
頼久寺の門。
頼久寺庭園。
折井家の武家屋敷玄関。
奥座敷。
明治37年造営の郷土資料館。
松山城天守まで、麓から70分かけて登った。臥牛山の標高は約480m。
太鼓丸に散乱した瓦。おそらく明治の破却時のもの。
太鼓丸からみる眺め。
石垣群と現存する土塀。
三の平櫓東土塀。手前の箇所は現存している。.
現存する二重櫓。この奥に中世城郭の大松山城があった。
古写真をもとに復元された六の平櫓(左)、五の平櫓と現存する天守。
天守は1600年に小堀政次、政一によって上げられたものを、1683年に水谷勝宗が修築したもの。かつては手前にあった八の平櫓から渡櫓を経て中へ入った。
明治の廃城令では山頂にある天守は、壊すのに費用が掛かるということで破却を免れた。その後天守は放置され、野生の猿に占拠されていたが、昭和初期に修理されるまでなんとか倒壊を免れたという幸運の天守。
天守一階。
合戦に備えての囲炉裏。
内装束の間。落城の際はここで城主が切腹する。
天守二階。
宝剣を祀った御社壇。水谷勝宗は城を修築した際,松山藩の守護として三振の宝剣を奉納した。


松江城へ

戻る