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金沢城

加賀100万石、前田家の居城。


加賀一向一揆勢の拠点として築かれた尾山御坊を、佐久間盛政が攻め落として居城とし金沢城と命名した。
後に前田利家が改修して居城とする。縄張りはキリシタン大名として有名な高山右近によって行われた。
五層の巨大天守が上げられるも落雷により焼失、その後天守の代用の御三階櫓が築かれるも宝暦の大火で金沢城は全焼。
明治14年には軍の台所からの失火により二の丸御殿を含む多くの建造物を焼失してしまう。
金沢城はもっとも大火に見舞われた城となり(50回以上)それは尾山御坊の呪いとも言われた。


前田利家像。
金沢城のシンボル、石川門。城の裏門にあたる。その下には百間堀があったが埋め立てられてしまった。
金沢城独特の石落し。
金沢城の特徴である海鼠壁。寒さ対策の為だが、これが狭間のカムフラージュとなる。
土塀の裏側。隠し狭間で表からはどこから撃っているか分からない。
石川門の正面。宝暦の大火で焼失する前は右側にも二重櫓があった。
石川櫓。
石川門一の門。
石川門二の門。典型的な枡形門だ。
石川門の石垣。右(切り込みはぎ)、左(打ち込みはぎ)と積み方が違う。
金沢城の石垣はカラフルである。
石川門内部。この日特別公開されていた。というより特別公開の日に城に行くようにしている。
石川門を抜けると復元された多聞櫓群が待ち構えている。明治以後に木造復元された城郭建築の中では日本最大。
復元された河北門とニラミ櫓台。ニラミ櫓には二層の櫓があったが宝暦の大火で焼失したのちは土塀のみ建てられた。敵に睨みを利かす櫓であるためニラミ櫓と言う。
河北門二の門。石川門と同様で枡形門である。本来石川門ではなくこちらが正門なのだが、明治時代に破却されてしまった。
河北門二の門内部。木の新鮮な香りが漂っていた。
河北門の後ろから菱櫓が監視している。(右端)
菱櫓。文字通りひし形をしている。河北門、石川門を監視しやすいようにひし形にしたようだ。宝暦の大火で御三階櫓を焼失後はこの櫓が金沢城のシンボルとなる。
しかし明治14年に焼失してしまう。
菱櫓内部。歪んで見える。
ひし形の構造が分かる。
柱もひし形だ。
もちろん階段も。
金沢城の模型。手前が石川門。本丸は宝暦の大火前の状況、二の丸は大火後の状況を再現している。
本丸。中央が御三階櫓。
五十間長屋内部。
組み立て前。
組み立て後。
金沢城の瓦は鉛である。理由として寒冷地、鉛が余ったから、戦の時鉄砲の弾にするためといった説がある。火事になった時は滴となって流れ落ちたため、建物内にあった貴重品を救出できなかったという。
金沢城の壁。
橋爪門続櫓内部。こちらはひし形になっていない。
橋爪門続櫓と橋爪門一の門。その奥にあった二の門は現在復元中!
橋爪門の奥に現存する三十間長屋。宝暦の大火前は右に二重櫓があった。こちらは裏側。
反対側が表。
三十間長屋内部。
鶴丸倉庫。明治時代の倉庫と思われていたが実は江戸時代末期に建てられていた。
金沢城本丸の石垣。下から2段目のみ本物。金沢城1の高石垣で明治時代に崩落し、一時的に修復したもの。本来の状況と異なっている。
復元された鯉喉(りこう)櫓台。土塀のみで櫓は建っていなかったらしい。
復元されたいもり堀。実際はもっと広い。
本丸跡。かつてこの場所に、金箔瓦に輝く五重天守がそびえていた・・・


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