福井城

越前松平家、北陸押さえの城。


1575年、柴田勝家は北陸攻略のために北の庄城を築城する。
しかし1583年、賤ヶ岳の戦いに敗れた勝家はお市の方と共に自刃し北の庄城は落城。
1600年、家康の次男である結城秀康は関ヶ原の戦いの後北の庄城に入城し城を改修、
縄張りは徳川家康の手によって行われ、最大の外様大名、加賀前田家を押さえる大城郭となった。
1624年、三代藩主松平忠昌によって「北の庄」の「北」が「敗北」につながるとして
「北の庄城」から「「福居城」に改名され、後に福井城となった。


福井城の前身、北の庄城天守想像図。7層、もしくは9層であったとされ、柴田勝家とお市の方はこの天守の中で自刃した。
柴田勝家像。辞世の句は、
「夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」。
お市の方。辞世の句は、
「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 別れを誘ふ ほととぎすかな」。
茶々、初、江の三姉妹の像。
北の庄城の石垣遺構。
福井城本丸と堀。
巽櫓跡。天守焼失後は福井城のシンボルであったが、明治に破却された。
巽櫓古写真。
結城秀康像。中国人の彫刻家によるものなのでどこか違和感がある。
古写真をもとに復元された御廊下橋。藩主が政務をとるために本丸へ移動する際に利用されたという。
復元された土塀の赤瓦。
天守台の脇にある「福井」の語源となった「福の井」。
福井城天守。4重5階の巨大天守だが1669年に焼失してしまう。
天守台石垣。
きれいな四角に加工されている天守台石垣。
福井地震で損傷した控天守台石垣。
天守台入口。
天守台。幕府から再建の許可は下りなかった。
復興された舎人門。
越前松平家の別邸で「お泉水屋敷」と呼ばれていた「養浩館」。戦災で焼失し復元された。
「養浩館」内部。
「御湯殿」
「御月見ノ間」。
「養浩館」庭園。


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