伊予松山城
加藤嘉明が築いた連立式天守の城
関ヶ原の戦いの戦功により、20万石に加増された加藤嘉明は松山城の築城に取り掛かった。
しかし嘉明は築城途中で会津へ転封され、変わって蒲生忠知が入城するも改易。
1635年、松平定行が入城し以後松平氏の居城となる。
明治以後、廃城令、2度の放火事件、空襲により城の建造物の大部分を失うも、
昭和40年代より、本丸では木造による本格的復元が行われた。
春や昔 十五万石の 城下哉 (正岡子規) |
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二の丸の四脚御門。本丸の二の門を本に復興された。 | |
復興された二の丸多聞櫓。 | |
二の丸庭園入り口。 | |
多聞櫓内部。 | |
御殿の模型。 | |
御殿の間取りが表示されている。 | |
二条城の米蔵をモデルに復興された米蔵。中は物置。 | |
復興された番所。中はトイレ・・・ | |
大井戸跡。 | |
水琴窟(すいきんくつ)。竹に耳を当てると、きれいな音が鳴り響いていた。 | |
まな板石。戦後行方不明になった為、これが本物か不明。松山城2代城主蒲生忠知は世継ぎが生まれないことに憤り、御殿前を通った妊婦をさらってはこの岩の上で腹を裂いて胎児を取り出した。しかし出てくるのは皆女の子だったという伝説がある。蒲生忠知には嗣子がいなかったため、蒲生氏は断絶した。 | |
血?・・・ | |
本丸へ登った。 | |
太鼓櫓。戦災で焼失したが再建。 | |
高石垣の上にある。 | |
現存する戸無門。その名の通り、戸が無い。 | |
戸無門内側。 | |
筒井門。1949年放火で焼失し再建された。 |
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筒井門の横にひっそりとある隠門(重要文化財)。 | |
太鼓門。戦災で焼失したが再建された。 | |
巽櫓。戦災で焼失したが再建。 | |
馬具櫓。戦災で焼失しコンクリートで再建。なぜコンクリート? | |
天守が見えてきた。 | |
現存する松山城大天守。当初、加藤嘉明は5重天守を上げたが松平定行により3重に縮小された。幕府への配慮からとも地盤が弱かった為とも言われる。その天守は1784年に落雷で焼失し、幕末の1852年に対異国船の為として、現在の天守が再建された。 | |
1933年放火で焼失し再建された小天守。 | |
1933年放火で焼失し再建された北隅櫓と南隅櫓。 | |
放火で焼失というのは悲しすぎる・・・ | |
現存する一の門。 | |
現存する二の門。 | |
本来5重天守が上げられた天守台に3重天守を上げた為、彦根城のようにずんぐりした天守となっている。 | |
天守台石垣。 | |
復元された玄関多聞の玄関。 | |
天守入り口。 | |
復元された北隅櫓2階。 | |
復元された十間廊下内部。 | |
復元された小天守一階。 | |
小天守2階。 | |
小天守から見る一の門、一の門南櫓、二の門南櫓、三の門南櫓。全て現存している。 | |
大天守一階。 | |
大天守2階。 | |
大天守最上階。 | |
大天守からの眺め。 | |
復元された内門。 | |
現存する仕切門。 | |
天神櫓側面。戦災で焼失し再建された。 | |
内部では菅原道真が祀られている。 | |
天神櫓正面。 | |
現存する野原櫓。望楼型の櫓である。 | |
野原櫓と高石垣。 | |
乾門。戦災で焼失したが再建された。 | |
乾門前から見る本丸。 | |
現存する乾櫓。 | |
艮門東続櫓。戦災で焼失し、再建された。 | |
松山城は大規模な本格木造復元が行われ、本来の「日本の城」が体感できる数少ない城の一つである。 | |
松山や 秋より高き 天守閣 (子規) |